日本の季節感は重層的である

 銀杏(いちょう)の黄落は木枯らしに吹き飛ばされることもなく、小春日和の光を浴びて大地を染めている。庭先や軒下の菊も、けなげに咲き残る風情とは少し違う。暖かい晩秋が続いて、東京の初霜は例年より遅れ、残菊を際立たせる霜枯れの背景はまだ見られない。
 旧暦9月9日の重陽節句(今年は10月22日)の後に咲くのは十日の菊。旧暦5月5日の端午の節句を過ぎて咲くのは六日のアヤメ。この2つを並べて、時期を外して役に立たないたとえに、「六日のアヤメ、十日のキク」などという。しかし、咲き残った残菊にこそ真価が宿ることを、人々は知っていた。
 江戸時代までは、旧暦の10月5日(今年は11月16日)ごろ、宮中では残菊の宴が開かれていた。十日の菊はむしろきっぱりと咲いて、一年の花のとりにふさわしい。残菊とは別に遅咲きに改良された晩菊もある。はしりを珍重しつつ、盛りを称賛し、名残りを惜しみ慈しむ。日本の季節感は重層的である。
 ところが、無秩序な開発や都市のヒートアイランド化で、自然が単調になって粘りを失うと、人間の感性まで棒のごとく硬直して振れやすくなるのかもしれない。金ほしさという単純な動機で少年たちが通行人を襲う「おやじ狩り」という名の強盗事件も、都市の殺風景と無縁ではない。
(春秋)