国の壁

 ダブルのスーツに身を包み、アタッシェケースを持つジェンキンスさんは、欧米のビジネスマンのように見えた。あれ、と思ったのは、出迎えた人と握手した時である。

 差し出した右手の手首の近くに、左手を添えた。韓国でよく見かけるしぐさで、礼儀作法の一つと聞く。

 かつて国を捨てた人が、たたずまいは母国風のまま、今暮らす国の作法であいさつをする。若い日に故国から拉致された妻と久々に再会した。その場に、拉致した国の係官が同行している。生国は、なお、脱走兵として訴追する構えだ。国と国との絡み合いの複雑さや、国の壁の厚さが、ジャカルタでの曽我ひとみさんの一家に、覆いかぶさっているように見えた。

 「国」の旧字は「國」で、その原字は「或」である。城壁で囲まれた地域を示す「囗」と、土地の境界線の「一」、そして武器である「戈(ほこ)」からなる。「國」は、さらにその外側を城壁の「囗」で取り囲んでいる(『漢字の知恵』ちくま新書

 「国の壁」について、国際司法裁判所が厳しい勧告的意見を言い渡した。イスラエルが、ヨルダン川西岸パレスチナ占領地で建設している分離壁国際法違反であり、中止・撤去すべきだとした。空撮の写真では、分離壁は、元の道や街並みを分断している。それは、壁が人間のきずなを断ち切る様(さま)にも思われた。

 「国」という字は、城壁の中に貴重な財産の代名詞である「玉」を置いて、それを守ることを表しているという。今最も大切な「玉」とは何なのか*1。今日は、国民が、それを示す機会でもある。
(天声人語)

*1:二十代前半の若者の年金納付率が四割に満たない。その年金不信の原因は、若年雇用の悪化とフリーターの激増にある。結婚できない。子供も産めない。かつてこれほど若者をないがしろにした政治はない。憲法九条改正で戦場に身を置くのも若者たちなのだ。「筆洗」2004/07/11