歴史のある町名

 歌人塚本邦雄さんは少年のころ、京都の義兄に手紙を書くたび、所番地をしたためながら「法悦に近い歓(よろこ)びを覚えた」という(井上ひさし編「ことば四十八手」、新潮社)◆その住所、「京都市伏見区深草極楽町」には金色燦然(さんぜん)の感があったと書いている。王朝絵巻を脳裏に思い描いたのだろう。地名の字形に、響きに深く感じ入るのは何も、詩歌の才に恵まれた人のみとは限るまい◆伝統ある味わい深い地名が消えていった例もある。落語の八代目桂文楽は「黒門町の師匠」と呼ばれた。黒門町は現在の「上野一丁目」である。上野一丁目の師匠、ではあまりさまにならない◆歴史のある町名に心を寄せる自治体に、かつての加賀百万石の城下町、金沢市がある。住民の申し出を受けて旧町名の復活を進める条例を全国に先駆けて制定し、今春から施行した◆この六月には、藩政時代に宅地税が銀六枚だったことに由来するといわれる旧町名、「六枚町」が復活している。町の名前を歴史的な文化遺産として見直そうとする自治体にとって、金沢市の取り組みは参考になるだろう◆江差追分に見える「歌棄(うたすつ)」(北海道)。山口青邨(せいそん)が俳句に詠んだ「淋代(さびしろ)」(青森県)。中上健次が小説に描いた「枯木灘(なだ)」(和歌山県)…。旅のままならぬ日、ひとりつぶやいて法悦に浸る地名もある。(編集手帳)