「火曜日に席を譲らぬ月曜日はなし」

ネジバナ 02

 ロシア人の作家で、最初にノーベル文学賞を受けたのは、イワン・ブーニンだった。日本では、トルストイチェーホフほど知られていないが、小説「日射病」「暗い並木道」などを残した。

 19世紀の末、25歳のブーニンは、10歳上のチェーホフに尋ねられた。「大いに書いていますか?」「いいえ、あまり」。「いけませんね」。不機嫌そうに、低いバリトンチェーホフは言った。「いいですか、仕事をしなくては……。手を休めないで……生きているかぎり」(『ブーニン作品集』群像社

 生きている限り、ほぼ手を休めずに戯曲や小説を書き続けたチェーホフは、100年前の7月、肺結核のため、ドイツの静養先で他界した。44歳だった。

 この年の2月に、日露戦争が始まった。6月のベルリンでのことを、チェーホフの妻の弟が記している。「ロシア軍の勝利を望む」と言う義弟に、こう答えた。「そんなことは決して言ってはいけません(略)われわれの勝利は、専制を強化し、われわれに息切れさせている圧制を強化することになるではないか。その勝利は、迫りくる革命を阻止することになるだろう」(『チェーホフのなかの日本』大和書房)

 翌月の臨終の時、傍らの医師に、ドイツ語で「わたしは死ぬ」と告げた。そして、受け取ったシャンパンを飲み、静かに横たわり絶命したという。

 残された手帳や手稿には、小気味よい諧謔(かいぎゃく)が詰まっていた。「火曜日に席を譲らぬ月曜日はなし」「上演できる脚本なら誰にだって書ける」(『チェーホフの手帖』新潮文庫
(天声人語)

桜の園

 東伊豆の川筋を濃いピンクに染めているのは緋寒桜(ひかんざくら)と早咲き大島桜の交配種とされる河津(かわづ)桜(ざくら)。本州で最も早い部類の桜は日に日に華やぎを増している。桜といえば今年、没後100年を迎えるチェーホフの「桜の園」の初演も、作者最晩年の春なお遠い1月だった。

▼没落貴族の憂愁を描いたこの作品では、かつてサクランボの収穫で地主を潤した果樹園が人手に渡ることになる。「桜の園」を意味するロシア語は、発音によって「利益を生む商業的な園」と「単なる観賞用の園」に区別されるが、チェーホフは後者をタイトルに選んだ(中本信幸著『チェーホフのなかの日本』)。

▼果実よりも花をめでるその発想は日本人の心情に通じるものがあるが、実は園芸を趣味とするチェーホフは、日本の植物の栽培にも熱心だったという。ヤルタの彼の家の庭には、カキ、ビワ、タケなどが最近も育っているとの報告もある。実際に訪日も試みたが、日本でのコレラ発生のため、かなわなかったそうだ。

▼時代の変わり目をホロ苦さとユーモアに包んで映し出した「桜の園」を、チェーホフは「喜劇」と称した。感傷的な演出には再三、異議を唱え、むしろ「陽気で軽薄な劇」なのだと強調してさえいる。新旧の節目で呻(しん)吟(ぎん)する今の日本を喜劇とみるか、悲劇とみるか、聞いてみたい気がする。*1

*1:春秋2004年2月22日