教養主義の没落
教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化
◇農村的エートス終えんとともに
いまでは信じられないかもしれないが七〇年代の前半まで神田の学生街のパチンコ屋で人気ナンバーワンの景品は岩波新書と岩波文庫と決まっていた。パチンコ屋通いの学生でもタマを岩波新書や文庫と交換して少しでも教養を高めようとしたのだ。
ところが、その頃を境にパチンコ屋から岩波新書や文庫が消える。同時にこれらに象徴された教養主義が魅力を失い、代わってマンガやアニメなどのマス・カルチャーがキャンパスの花形となる。
この主役交代はなぜ生じたのか? また、七〇年代まで日本を支配した教養主義とはいかなる実態を有していたのか? これが著者が問いかけた問題である。
著者によれば、教養主義とは「哲学・歴史・文学など人文学の読書を中心にした人格の完成を目指す態度」で、大正時代に旧制高校に定着し、バイブルとして阿部次郎の『三太郎の日記』や西田幾多郎の『善の研究』などを持ったが、旧制高校がその本堂だったとすれば、奥の院は帝大文学部だった。なぜなら、文学部の卒業生は教職しか就職口を持たなかったため「教養主義を再生産するという循環も成り立っていた」からだ。
この点ではリセや大学の教員養成を目的とするフランスの高等師範学校(エコール・ノルマル・シューペリュール)と同じである。しかし、ある一点で両者は大きく異なる。高等師範学校ではパリのブルジョワの出身者が大半を占めていたのに比して、帝大文学部では、理学部や経済学部と違って、農村部出身の比較的貧しい層が多かった。高等師範学校は下の階級に閉鎖的であったのに対し、「農村的学部」的な帝大文学部は相対的貧困層にとって「親和的な学部」となっていた。
この発見が教養主義の本質を解くカギとなる。すなわち、教養主義はじつは刻苦勉励型の農民的エートスに西欧文化崇拝を接ぎ木した折衷文化であり、「西洋文化の崇拝を核にしたからバタ臭くはあったが、修養主義と同じく勤勉を底礎にした鍛錬主義だった。したがって、教養主義は、必ずしも成熟した都市中流階級のハイカラ文化とはいえなかった。むしろ田舎式ハイカラ文化ともいうべきものだった」。
こうした教養主義の本質は、その文化エージェントである岩波文庫における翻訳書の占有率に象徴的にあらわれている。岩波文庫では軍国主義の時代でさえ四〇%以上を翻訳書が占めていた。それは刻苦勉励型のエートスの学生を泥臭い日本の田舎から一気に西洋知の世界へと飛翔させる装置として機能したのである。マルクス主義も農村的貧困を西洋知で包み込むオブラートの役割を果した点では変わりない。
では、これほどまでに大学生を支配した教養主義が七〇年代の前半に神通力を失ったのはなぜか?
一つは大学の大衆化により、教養主義が大学生にとって収益を見込んで投資できる文化資本ではなくなったこと。もう一つの原因は都市型生活様式が全国に浸透し、日本から農村的エートスが消えたことである。「農村的エートスが払拭され、都市型社会への変化がおきる。この変化は教養主義の根っこにあった文化的無意識である刻苦勉励的エートスの崩壊でもある」