三遊亭円朝

ハス 01

 明治時代に、文章の言葉遣いを話し言葉に一致させる言文一致の運動が起きた。中心に居た一人で「浮雲」などを著した二葉亭四迷が、「余が言文一致の由来」を記している。

 「何か一つ書いて見たいとは思つたが、元来の文章下手で皆目方角が分らぬ。そこで、坪内先生の許(ところ)へ行つて、何(ど)うしたらよからうかと話して見ると、君は円朝(ゑんてう)の落語(はなし)を知つてゐやう、あの円朝(ゑんてう)の落語(はなし)通りに書いて見たら何(ど)うかといふ」。仕上げた作を見た坪内逍遥は「忽(たちま)ち礑(はた)と膝を打つて、これでいゝ、この儘でいゝ、生(なま)じツか直したりなんぞせぬ方がいゝ」(『明治文学全集』筑摩書房)。

 幕末から明治期に活躍した三遊亭円朝は「落語中興の祖」「近代落語の祖」と呼ばれる。人情話に長じ、「牡丹灯籠(ぼたんどうろう)」など自作の怪談ものでも知られた。「今日(こんにち)より怪談のお話を申上げまするが、怪談ばなしと申すは近来大きに廃(すた)りまして、余り寄席(せき)で致す者もございません」。「真景累ケ(しんけいかさねが)淵(ふち)」の枕だ。

 1900年、明治33年に他界したが、昨11日が命日だった。墓のある東京・谷中の全生庵(ぜんしょうあん)では「円朝まつり」が催されており、8日には、法要などがあった。落語家らの模擬店が境内に並び、浴衣姿の若い人たちや家族連れでにぎわっていた。

 円朝は幽霊の絵を集めていたという。幽霊画数十点が、本堂脇に展示されている。生首を持つ幽霊などに混じって、足のある幽霊も居て、エアコンの冷気とともに、おかしみも漂っていた。

 眼を閉て聞き定めけり露の音(『三遊亭円朝青蛙房)。これが辞世で、享年62だった。
(天声人語)