送り火

 「忠魂に捧(ささ)ぐ浄白の大文字」−−戦時下の1943(昭和18)年8月17日の毎日新聞はそんな見出しで京都の「白い大文字」を伝えている。朝焼けの空を背にして、緑の中に白く浮き出た「大」の写真も添えられている▲京都五山の「送り火」が灯火管制やまき不足で中止を余儀なくされた。だが、16日早朝、地元の町内会の人たちや児童約2000人が白い服を着て東山如意ケ岳に登り、木を燃やすはずの火床でラジオ体操をしたのだ▲体操の後、白が目立つように参加者は市街に背を向け、その人文字は「山本(五十六)元帥、アッツの勇士の初盆にふさわしい」と記事にある。戦意高揚という軍の思惑をよそに、京都の人々には「精霊送りの伝統を守ろう」との思いの方が強かっただろう。「白い大文字」は翌年も見られたが、終戦の年は何もなく、46年に「送り火」が復活した▲今年は戦後59年、仏教でいえば六十回忌にあたる。「送り火」のきょうは、子孫の無事を確認するために現れた先祖の霊魂に帰り道を照らす日だ。今夏も靖国神社参拝が話題になったが、戦争犠牲者の慰霊のあり方についてはいまだに決着がつかない▲「国家や平和、人の生死について日本人がちゃんと考えようとするのは毎年の夏、終戦記念日のころまで。お盆が過ぎれば、そんな論議も急速にしぼんでいく」。精霊たちはそう言って、どこかで苦笑しているかもしれない▲アテネでは「人類の平和の祭典」を祝って聖火が燃え上がっている。長い歴史をもつ京都の「送り火」にその華々しさはないが、死者と生者の魂を鎮めるもう一つの聖火といえる。彼岸に戻る精霊たちは何を言い残そうとしているのか。今夜は静かに「送り火」を見つめ、その声に耳を澄ませたい。(余録)