スダチ 03

 新そば打ち始めました――。まだ昼までは少しあったが、張り紙につられて、のれんをくぐった。すいていた小上がりに座る。

 北海道産の粉で打ったという。どこか青畳のかぐわしさにも通じるような、かすかな香りを味わう。香りだけではなく、そばは、畳との相性がいい。ソファに身を沈めていては、たぐりにくい。小上がりの畳は、そう新しくはなかった。しかし、手のひらで軽く押すと、どこにでも畳敷きがあった頃の懐かしい感じがよみがえった。

 50年前、日本の建築を視察したドイツ出身の建築家グロピウスが、感想を残している。「タタミというものが尺度になって人体的な関係を保ちながらよく調和したものを生み出している……日本人はタタミの上に座ることからイスも、ベッドも必要ではなく」と、畳の生活の簡素な美しさをたたえた。

 グロピウスは、芸術と技術の統合を目指した造形学校バウハウスの初代校長を務めた。日本では多くの人から「タタミ廃止論」を聞いたという。「私は伝統とのつながりを忘れて、いきなり新しいものに飛び付いてゆくことは危険だと思う」と述べている。

 鉄筋の団地という新しいものに出会った日本人の悲喜劇を描いた古い映画で、確か加東大介だったと思うが、やけぎみに言うシーンがあった。「大体、家庭ってのは、家に庭と書くんだ」。家庭から庭が失われてゆくにつれ、多くの家から畳も消えていった。

 ワラやイグサで出来た畳は、いわば小さな自然でもあった。それは、家庭の中の、もう一つの庭だったのかもしれない。
(天声人語)