二つのロマン

キバナコスモス 01

 休刊日をはさんだ報道だったが、唐の都・長安(現西安)で日本の青年の墓誌が発見されたという記事を読んで、“二つのロマン”に思いをはせた。一つは異郷の地で志半ばで果てた日本人遣唐留学生の無念の望郷について。

 ▼石の墓誌に刻まれた伝記によると「姓は井、字(あざな)は真成(まなり)。国命で遠く唐にやってきた。礼儀正しさは比類なく、たゆまず勉学に励んだが、思わぬ病により三十六歳で死んだ」と。七三四年正月のこと。玄宗皇帝は英才の早世を悼み、官位を贈ったと記されているそうだ。

 ▼井真成阿倍仲麻呂(六九八−七七〇)とほぼ同世代になる。仲麻呂が帰国を試みた船は何度か難破した。遭難の報が長安へ伝わったとき、李白は嘆じて有名な弔詩を書いた。「日本の晁卿(仲麻呂のこと) 帝都を辞し 征帆一片 蓬壼(ほうこ)を遶(めぐ)る 明月帰らず 碧海に沈み 白雲愁色 蒼梧(そうご)に満つ」。

 ▼空海(七七四−八三五)は二人よりさらに後に生まれたが、当時の遣唐使船は逆風の六、七月に船出している。日本の遠洋航海術は幼稚という以上に無知だった。船中の糧食は糒(ほしい)(干し飯)で、生水でかみくだいて食べた(司馬遼太郎著『空海の風景』)。

 ▼もう一つのロマンは「国号日本」の文字が見えることである。現在の実物資料では最古という。七世紀後半、天武天皇は浄御原(きよみはら)令(りょう)を編纂(へんさん)して、「倭(わ)」にかわる国号を「日本」とおきめになった。同時に「大王」ではなく「天皇」を使われた。

 ▼ここに日本が誕生した。日本とは日の出るところであり、東の方向を指していた。太陽信仰とともに西への対抗心がある。中国大陸を強く意識したものだったのだ。飛鳥や奈良の日本人の強い自尊心が表れている。白く輝く“坂の上の雲”だったのではないか。
(産経抄)