携帯は下手なままでいます

 路地を歩いていた。先の方の四つ辻に、子犬を連れた男性が立っていた。こちらから見て右を向き、誰かと話している。相手の姿は角の家に隠れて見えない。やがて辻に近づき右手を見ると、そこには誰もいなかった。死角になっていた男性の左の耳もとに携帯電話があった。
 いわば一人一人が電話ボックスを持ち歩くようになって、そうはたっていない。しかし本紙の世論調査では、20代の3割が「ない生活は考えられない」と答えた。
 「これからも携帯は下手なままでいます」。明治学院大教授、辻信一さんの意見に、下手な一人として共感を覚えた。携帯の便利さは、速さと効率を競う社会での便利さで、半面、人と人が向き合うことで得られる大切な「つながり」が失われていると述べる。いつでもどこでも、つながりを求めながら、つながりの薄れる時代なのか。
 辻さんは『スロー・イズ・ビューティフル――遅さとしての文化』(平凡社)の後書きに、長田弘さんの詩「ふろふきの食べかた」を引いていた。「そうして、深い鍋に放り込む。/底に夢を敷いておいて、/冷たい水をかぶるくらい差して、/弱火でコトコト煮込んでゆく。/自分の一日をやわらかに/静かに熱く煮込んでゆくんだ」
 有線電話をベルが発明したのは、1876年、明治9年だった。明治の初期は、電話よりも「伝話」の方がよく使われ、テレホンは「得利風」とも書かれた(『無線百話』クリエイト・クルーズ)。
 ベルが今よみがえったら、怪しむだろう。「彼らは透明人間と話しているのか」
(天声人語)